昨日は、縁起の良い日が重なっていたのですが、神吉日というお参りにも良い日という事でした。
たまたま思い立って午後からお参りに行ったのですが、ちょうど良かったみたいです(*^_^*)
自分が人生の主人公ということ
もうすぐ七夕なんですね。
今日行った神社では、短冊のお願い事が書けるように笹が設置されていました。
各色で、願い事のカテゴリー分けがされていましたね。
全部は覚えていませんが、赤が、家族やご先祖様への感謝、ピンクが恋愛成就だったでしょうか。
ビジネスに関するカテゴリーが無いな〜と見ていたら、
お詣りに来られていたひとりの男性が書き始めたので、他の願い事の短冊を見ながら待っていました。
黄色の短冊には「宝くじに当たりますように」と書いてました(≧∇≦)
それが印象的で後のは忘れましたけど、各々面白いですね。
そしてその男性が1枚書いて、笹に結んでいたので、私も書こうかな〜と思ったら
「何枚書いてもいいやんな、次は孫の」と私に言って(?)次を書き始めたので、まぁ良いかと私は書くのをやめました(*^_^*)
最初はご自分のを書いたのでしょうね、次々家族のを書いたのでしょうね。
あなたは、自分の人生では、自分が主人公だという意識はありますか?
登場人物はたくさんいます。
両親に家族、ご先祖様や親戚、ご近所さん、そしてこうして通りすがりで会う男性も、私にとっては人生のエキストラです。
結婚するまで、私の人生の主人公は両親で、私は助演女優でした。
両親や家族は、確かに自分の人生の中では大きな存在です。
でも、その人達にも自身の人生があります。
私には私の人生があって、私にしか経験できないものなんですね。
考えたり、何かを決めたり、実際に行動したり、他人にお願いすることはできません。
手が離せない時に、ちょっとトイレ行ってきて〜と横にいる人に冗談で頼んだりしていましたが、もちろん代わりに行動してもらうことはできません。
自分の人生は、自分が主人公として進んでいるのです。
なので本当ならば、お孫さんであっても他人の願い事を代わりにお願いするということも、神様から見たら違うんですよね。
誰の感情なのか
短冊に願い事を書くにしても、本人が願わないことには、実際には叶わないわけです。
「孫の病気が治りますように」
そう短冊に書いて、叶ったとしても、それは本人が望んだからだということなんですね。
願った人は、それによって自分自身の安心や喜びを得ることが叶ったということです。
お百度石もありました。
それを見ながら、私の祖母のことを思い出していました。
私も小学校低学年の時に腎臓を悪くして、運動制限もありました。
祖母はその病気が早く治るように、毎日地元のお地蔵様に願掛けをしてくれていました。
そんなおばあちゃんのおかげで病気も治ったんだよ、と親に言われましたが、
子供心に関係ないやんと想いながらも「ありがとう」とお礼を言ったことを思い出しました。
祈りの力は強いです。
人間の心から出るエネルギーは、研究でも実証されています。
たくさんの人から病気の治癒を祈られた人と、そうでない人では、圧倒的に祈ってもらった人のほうが治りが早かったそうなんですね。
なので、第三者から見たら、祈った人のおかげで病気が治ったと言えるかもしれません。
でも、病気を治したいという感情は本人のもので、
祈った人は「その人の病気が治ってくれたら私も嬉しい」という感情なのですね。
自分自身がそういったプラスの豊かなエネルギーを送ることで、魂の部分ではつながっているので、それが相手にも影響されていきます。
それが何千、何万もの人のエネルギーで、病気が回復していったということを否定するつもりはありません。
むしろ、それこそスピリチュアル的な考え方なので、祈りの力は信じています。
ただ、何に対する感情なのか、ということなんですね。
自分自身も満たされていくためであって、その感情は誰のものでもなく、自分自身のものなのです。
祈ることで疲れ果てて本人が病気になっていては、その祈りが届くことはありませんよね。
相手の病気が治っていくというイメージで自分自身が光のエネルギーの中に入っているからこそ、魂を通じて伝わるのであり、本人自身も満たされていきます。
その満たされる感情は、誰のものでもなく、自分のものなんですね。
実は、子供の時の私は病気が治ることを望んでいませんでした。
運動が好きではなかったので、体育も見学できるし、当時体罰もあった時代、ウサギ跳び運動場一周とか、しなくてもよかったからです。
でも、休み時間の探偵ごっこや、ドッチボールは先生も見ていないので、ガンガン参加していました。
なので、病気は嫌いな授業をパスできる格好の理由だったなぁと今では分かります。
そして、中学生になったとき、仲のいい友達がみんなバスケットボール部に行ったんですね。
その頃、私の中で変化が起きたのだと思います。
私も運動部に入りたい!
その気持ちが生まれたからこそ、病気も治り、晴れて中学二年からバスケットボール部に入部できました。
体力ももちろんありませんし、運動神経も悪かったので、それはそれは劣等感を持ちましたが、それよりもみんなと同じ輪に入られることが楽しかったのを覚えています。
もちろん、その頃には祖母がお参りしてくれていることなど、すっかり忘れていました。
人生は自分で操作している
自分自身の人生について、自分で舵を握っていると、あなたは言えますか?
以前の私は言えませんでした。
親の思う人生を歩んでいました。
親の望む進学、親の望む就職、親の望む生き方、親の考え方に猛烈に反発しつつも、結局は言われるように生きてきていると思っていました。
でも、それも実は自分で選んできているということなんですね。
親が望んだからと言って、別の選択をしている場合もちゃんとあるのです。
いえ、むしろ日常の生活すべて、親の言う通りにしてはいられません。
自転車で行くのか、電車で行くのか、親がどうこう指示したとしても言うことを聞くこともあれば、聞かない時もあります。
言うことを聞くか、聞かないか、それを自分で判断して選んでいるということなんですね。
他人に操作されていると思うからこそ、自分の人生に責任をもたなくていいわけです。
何か都合が悪くなったら人のせいにしていればいいわけです。
でも、実際には自分がどうするか決めてきているということなんですね。
自分の人生は、他人に生きてもらうことはできないんです。
誰もが肉体を持って、1日24時間という制限の中で生きているのですから。
それに気づいて「自分で決めている」という自覚が生まれてはじめて、自分の人生を自分で生きることができるんですね。
あなたは、誰の人生を生きていますか?
誰の感情で行動をしていますか?
自分で決めて、自分の人生を生きているんですよ。
もうすでに、最初からずっとそうなんですよ。
以前の私も「親の人生を生きてきてたわ〜」と思っていましたが、その時すでにちゃんと自分の人生を生きてきていたということなんですね。
過去は変えられませんが、過去に対する認識は、いつでも変えることができます。
祖母から見たら「病気で運動ができない可愛そうな孫」でしたが、
当の本人は「体育がサボれるラッキーな私」だったわけですからね。
私が子供の時の自分に対する認識を変えたのは最近です。
私も自分のことを「小学生時代は運動させてもらえなかった可愛そうな私」ということを
病気のせいではなく親のせいにしていたのですから(;´∀`)
あなたも、自分の人生をちゃんと生きています。
今、そう認識を変えたらいいだけのことです。
「私の人生の主人公は私なんだ〜」と思ったら、楽しい気持ちになりませんか?
ハッピーエンドにするのも、壮大なアドベンチャーストーリーにするのも、あなた自身なのですから。
今日は、最高の主演女優の私にありがとう(*^_^*)
#今日のありがとう vol.532
カテゴリ: スピリチュアル , 今日のありがとぉ♡ブログ , 満月・新月と手放し , 自分の人生を歩むということ